貞享4年(1687)10月25日〜貞享5年(1688)4月23日 芭蕉44歳〜45歳
貞享4年(1687)10月25日、芭蕉は江戸を発ち、東海道を上り尾張の鳴海・熱田へ。門人越人を伴い、伊良湖岬で杜国を見舞う。再び鳴海・熱田・名古屋で当地の俳人たちから歓迎を受けて連日句会に出席。歳末に伊賀上野へ帰郷して越年。伊勢で杜国に会い、再度伊賀上野へ帰郷し父の33回忌を営む。春、杜国と連れ立ち、花の吉野へと向かう。和歌の浦・奈良・大坂・須磨に至り、4月23日に京都に入るまでの6か月の旅。
芭蕉は旅から数年を経た頃に、この紀行文の成立に向け力を注いだが、未定稿のまま門人乙州に預けて江戸に戻る。芭蕉没後15年を経た宝永6年(1709)に乙州が刊行する。『笈の小文』や、卯年(貞享4年)から辰年(同5年)に至るので『卯辰紀行』とも称する。序文で、芭蕉の「道すがらの小記を集め」たものと述べているように、風雅論、紀行論、旅論等が収載されており、必ずしもまとまった紀行文ではないが、長編よりも短編紀行文的な発想や、発句を一まとめにして作品に発表されたことが注目される。
旅人と我名呼ばれん初しぐれ
星崎の闇を見よとや啼(なく)千鳥
京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
冬の日や馬上に氷る影法師
鷹一つ見付てうれしいらご崎(ざき)
磨(とぎ)直す鏡も清し雪の花
箱根越す人も有(ある)らし今朝の雪
ためつけて雪見にまかる紙衣(かみこ)哉
いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで
香を探る梅に蔵見る軒端(のきば)哉
旅寝して見しやうき世の煤(すす)払ひ
歩行(かち)ならば杖突(つゑつき)坂を落馬哉
旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒(を)に泣(なく)年の暮
二日にもぬかりはせじな花の春
春立(たち)てまだ九日の野山哉
枯芝ややゝ陽炎(かげろふ)の一二寸
丈六(じやうろく)にかげろふ高し石の上
さまざまの事思ひ出す桜哉
何の木の花とは知らず匂(にほひ)哉
裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉
此(この)山のかなしさ告(つげ)よ野老掘(ところほり)
物の名を先(まづ)問ふ芦(あし)の若葉哉
梅の木に猶(なほ)やどり木や梅の花
芋植(うゑ)て門(かど)は葎(むぐら)の若葉哉
御子良子(おこらご)の一本(ひともと)ゆかし梅の花
神垣(かみがき)や思ひもかけず涅槃像(ねはんざう)
吉野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠(きがさ)
草臥(くたびれ)て宿借(か)る比(ころ)や藤の花
春の夜や籠(こも)り人(ど)どゆかし堂の隅(すみ)
猶見たし花に明行(あけゆく)神の顔
雲雀(ひばり)より空にやすらふ峠哉
龍門の花や上戸(じやうご)の土産(つと)にせん
酒飲みに語らんかゝる滝の花
ほろほろと山吹散るか滝の音
桜狩(が)り奇特(きどく)や日々に五里六里
日は花に暮てさびしや翌檜(あすならう)
扇にて酒汲(く)む影や散る桜
春雨の木下(こした)につたふ清水哉
父母(ちちはは)のしきりに恋ひし雉の声
行春(ゆくはる)に和歌の浦にて追付(おひつき)たり
一つ脱(ぬ)いで後(うしろ)に負(おひ)ぬ衣がへ
灌仏(くわんぶつ)の日に生(うま)れあふ鹿(か)の子哉
若葉して御目(おんめ)の雫拭(ぬぐ)はゞや
鹿の角先一節(まづひとふし)の別れかな
杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉
月はあれど留守のやう也須磨の夏
月見ても物たらはずや須磨の夏
海士(あま)の顔先(まづ)見らるゝや芥子(けし)の花
須磨の海士の矢先に鳴(なく)か郭公(ほととぎす)
ほとゝぎす消行方(きえゆくかた)や島一つ
須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇(こしたやみ)
蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月