寛永21年正保元年(1644) 数え年1歳 | |
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現伊賀市に生まれる。出生月日は不詳。幼名金作、成長して宗房を名乗り(実名)とした。 通称甚七郎、別に忠右衛門を称したとも伝えられる。(幼名・通称には異説もある。) |
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明暦2年(1656)芭蕉13歳 | |
父与左衛門が亡くなる。上野農人町の愛染院に葬る。 | |
寛文2年(1662)芭蕉19歳 | |
藤堂新七郎家(藤堂藩侍大将5000石)に奉公する。 奉公の時期については、諸説がある。 |
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寛文4年(1665)芭蕉21歳 | |
松江重頼編『佐夜中山集』(寛文4年9月26日跋)刊。伊賀上野松尾宗房として発句2句入集。現存俳諧集に見られる最初の入集作である。
姥桜咲くや老後の思ひ出
月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿 |
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寛文5年(1665)芭蕉22歳 | |
11月13日 | 藤堂蝉吟主催の貞徳翁十三回忌追善五吟百韻に加わる。 |
寛文6年(1666)芭蕉23歳 | |
4月25日 | 藤堂蝉吟が亡くなる。享年25歳。 |
寛文7年(1667)芭蕉24歳 | |
北村季吟監修・同湖春編『続山井』(寛文7年10月18日奥)刊。伊賀上野の松尾宗房として発句28・付句3入集。 | |
寛文9年(1669)芭蕉26歳 | |
荻野安静『如意宝珠』が完成する(刊行は延宝2年5月)。伊賀上野宗房として発句6入集。 | |
寛文10年(1670)芭蕉27歳 | |
岡村正辰編『大和順礼』(寛文10年庚戌林鐘下浣奥)刊。伊賀上野宗房として発句2入集。 | |
寛文11年(1671)芭蕉28歳 | |
名古屋吉田友次編『藪香物』(寛文11辛亥林鐘吉日奥)刊。伊賀上野宗房として発句1入集。 | |
寛文12年(1672)芭蕉29歳 | |
1月25日 | 三十番発句句合『貝おほひ』を自撰し、当日付の自序と俳友横月の跋を加えて伊賀上野の菅原社(上野天神宮)に奉納する。 |
延宝2年(1674)芭蕉31歳 | |
北村季吟より俳諧作法書『埋木』を授けられる。 | |
延宝4年(1676)芭蕉33歳 | |
6月、郷里へ旅立ち、6月20日頃伊賀上野に帰り、7月2日まで逗留後江戸に戻る。その間、旧友と俳交あり。 滞在中、門人市隠に「時節嘸(じせつさぞ)」歌仙を自筆して与える。 |
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貞享元年(1684)芭蕉41歳 | |
8月末 | 「野ざらし紀行」の旅中、伊勢に赴く。松葉屋風瀑を訪ねて約10日間逗留、その間外宮参拝。翌日雷枝亭に一宿、また勝延亭、蘆牧亭を訪う。 |
9月8日 | 伊賀上野に帰省。4,5日逗留。 |
11月上旬頃 | 木因同道で伊勢桑名郡多度権現に参詣。次いで桑名本統寺住職琢恵を訪う。 |
12月25日 | 再び伊賀上野に帰郷。
年暮ぬ笠着て草鞋はきながら 『野ざらし紀行』
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貞享2年(1685)芭蕉42歳 | |
1月 | 伊賀上野で正月を過ごし2月下旬まで逗留する。 |
2月下旬 | 伊賀上野を出て、奈良、京都、名古屋を訪て後江戸に戻る。 |
貞享4年(1687)芭蕉44歳 | |
12月中旬頃 | 「笈の小文」の旅中、名古屋を出て伊賀上野に向かう。経路は佐屋廻り、桑名まで渡船。以後東海道を上り、杖突坂で落馬。 |
12月末 | 伊賀上野に帰省。歳暮吟あり。
旧里や臍の緒に泣年の暮 『笈の小文』
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元禄元年(1688)芭蕉45歳 | |
1月1日 | この日、朝寝を悔いて歳旦吟とす。
二日にもぬかりはせじな花の春 『笈の小文』
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1月9日 | 小川風麦亭で会あり。 |
2月上旬 | 伊勢神宮に赴く。途中、伊賀上野の郊外阿波庄まで旧友宗七・宗無を同伴。新大仏寺に詣る。 |
2月4日 | 伊勢神宮参拝。滞在中、伊良湖崎から来た杜国と落ち合う。 |
2月上旬 | 伊勢滞在中、句あり。
何の木の花とは知らず匂ひ哉 『笈の小文』
御子良子の一本ゆかし梅の花 『笈の小文』 |
2月18日 | 伊賀上野の実家に帰る。この日、亡父三十三回忌の法要が営まれる。 |
2月末 (又は三月初) |
岡本苔蘇(木白)の瓢竹庵に入り、杜国と共に約20日間を過ごす。 |
3月11日 | 土芳の新庵に泊る。 土芳庵訪問の折、面壁の達磨の画図に「蓑虫の音を聞にこよくさのいほ」の句を賛して与える。(蓑虫庵の由来) |
春 | 旧主家藤堂探丸別邸の花見に招かれ、懐旧の句あり。探丸脇あり。これを自筆に揮毫して贈る。
さまざまの事おもひ出す桜かな 桃青
春の日はやく筆に暮れ行く 探丸子 |
3月19日 | 瓢竹庵を出、万菊丸(杜国の戯号)を伴って吉野行脚の途に就く。 |
3月下旬 | 南下して国見山の兼好塚を見物、琴引峠を越えて大和に入り、長谷寺参詣。「笈の小文」の旅の後、「更科紀行」の旅に出て、江戸に戻る。 |
元禄2年(1689)芭蕉46歳 | |
9月7日 | 「奥の細道」の旅を終え、曾良、路通同道で大垣出船、伊勢へ向けて揖斐川を下る。 伊勢長島に至り、大智院に泊まる。 |
9月11日 | 久居を出て宇治山田に着く。堤世古(現伊勢市浦口町)に一宿。 |
9月12日 | 西河原の島崎味右衛門(又玄)方へ宿舎を移す。滞在の間、その妻女に「明智が妻」句文を贈る。この日、松葉七太夫方で大々神楽を拝す。この折、江戸才丸・京信徳らと出会う。 |
9月13日 | 内宮参拝。夜、外宮遷宮あり、参拝。 |
9月14日 | 外宮参拝。また天岩戸・月夜見宮へも詣でる。 |
9月中下旬 | 二見浦見物。その前後、杜国は帰国、卓袋・路通は伊賀上野へ先発。李下のみ同行。
初時雨猿も小蓑を欲しげなり 『猿蓑』
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10月7日 | 曾良、長島より伊賀上野着。芭蕉はこの日は他出。 |
10月8日 | 昼前帰宅し、曾良と逢う。 |
10月10日 | 曾良、上野を発ち、江戸へ向かう。芭蕉・路通、四、五町送る。 |
11月1日 | 友田良品宅で六吟歌仙興行。
いざ子供走りありかん玉霰 『智周発句集』
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11月21日 | 半残宅で、明日土芳草庵会の下相談をし、その会席の献立などを決める。 |
11月22日 | 土芳の蓑虫庵で九吟五十韻興行。11月末、奈良に出て、大津、京都各地を周遊。 |
元禄3年(1690)芭蕉47歳 | |
1月3日 | 膳所を去り、伊賀上野に帰る。 |
1月4日 | 藤堂探丸方から招きを受ける。 |
1月5日 | 藤堂新七郎家の家令役式之、槐市連名宛に書簡を書く。昨夜の招きに謝し、風邪のため明日伺候の旨を伝える。 |
2月6日 | 西島百歳邸で九吟歌仙興行。 |
3月2日 | 小川風麦亭の会で連句あり。
木のもとに汁も膾も桜哉 『ひさご』
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3月上旬頃 | 実家に在って、発句の草案とその改案などをしたためる。 |
3月11日 | 上野東郊荒木村の白髭神社で、木白(苔蘇)主催の俳諧一折興行。 |
3月下旬 | 伊賀上野より膳所へ出る。途中、二句を半残に送る。 |
9月末 | 甲賀の山間を抜け、御斎峠越えで伊賀上野へ帰省。 |
10月中 | 在伊賀上野。松本氷固亭で歌仙一折あり、発句を勤める。11月中旬には京へ行く。 |
元禄4年(1691)芭蕉48歳 | |
1月上旬 (6〜8日頃か) |
湖南を去り、伊賀上野に戻る。以後3月末まで逗留。 |
1月中 | 藤堂修理長定(橋木)屋敷で句会あり。卓袋宅の月待ちの会での句あり。 |
3月23日 | 在伊賀上野。万乎別墅花見の会では俳諧一折興行。発句を勤める。 |
3月末 | 大津へ出る。10月29日に江戸に着く。 |
元禄7年(1694)芭蕉51歳 | |
5月26日 | 勢州長島に至り、曾良の叔父の住持する大智院に泊まる。久兵衛方も訪れる。 |
5月27日 | 久居に至り一宿。 |
5月28日 | 伊賀上野に着く。滞在中に猿雖宅での句あり。 |
閏5月4日 | 半残の訪問を受ける。 |
閏5月5日 | 氷固より到来品を得て礼状を執筆。旅後疲労の事、半残来訪の事なども伝える。 |
閏5月11日 | 雪芝亭に招かれ、歌仙一巻興行。挨拶の発句を詠む。 |
閏5月16日 | 二郎兵衛同伴で伊賀上野を発ち湖南に向かう。 |
7月中旬 | 伊賀上野に帰る。以後9月8日まで当地滞在。 |
7月15日 | 実家で盆会を迎える。 |
7月中下旬 | 猿雖亭に一宿 藤堂玄虎邸に遊び、発句あり。これを立句に表六句成る。 |
8月7日 | 望翠亭夜会で芭蕉発句の歌仙あり。 |
8月14日 | 大津の智月より時候見舞として、南蛮酒一樽・麩・菓子など届く。礼状を書く。 |
8月15日 | 伊賀門人衆の出資で成った新庵で月見の会を主彩、門人多数を招く。 この会に当り、芭蕉みずから『月見の献立』を書き、これに智月からの到来品も加える。 |
8月23日 | この頃素牛が訪れる。猿雖亭で四吟俳諧興行。 支考が、斗従を伴って伊勢より来着。芭蕉、斗従の労をねぎらって句あり。 |
9月5日 | 元説亭で俳諧一折あり。
行く秋や手を広げたる栗の毬 『続猿蓑』
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9月上旬 | 支考と『続猿蓑』の編集をする。 |
9月8日 | 支考・素牛、実家の又右衛門、江戸から戻った二郎兵衛らに付添われ、伊賀上野を出て大坂に向かう。 笠置・加茂間は川舟に乗り、奈良に至り一泊。奈良までは半残も同行。 |
10月12日 | 大坂で客死。 |