俳聖 松尾芭蕉

俳聖 松尾芭蕉

代々の賢き人々も、古郷はわすれがたきものにおもほへ侍るよし。
我今は、
はじめの老も四とせ過て、何事につけても昔のなつかしきまゝに、、、、、。
古郷や臍の緒に泣としのくれ

『千鳥掛』所収

 貞享4年(1687)12月、「笈の小文」の旅で、故郷伊賀の実家へ帰った芭蕉が、自らの臍の緒を見て、今は亡き父母の慈愛の情も懐かしく、しみじみと漏らした感慨である。芭蕉にとって故郷伊賀は忘れがたき特別な思いのする地であった。

 伊賀国は四方を山に囲まれた盆地で藤堂藩の城下町であった。藩主藤堂高虎公は慶長13年(1608)、伊予から伊賀・伊勢へと転封し、大坂の豊臣秀頼への備えが任務であった。伊賀国10万石、伊勢国の内10万石、伊予国の内2万石を与えられる。津に本城を置き、伊賀上野は支城とし城代家老が執政を行った。

 芭蕉がこの地に産声をあげたのが、寛文21年〈12月16日改元して正保〉(1644)である。幼少の頃、伊賀で流行していた俳諧に興味をもち、先輩俳人に手ほどきを受ける。10代の後半頃、文筆の誉れ高い藤堂藩伊賀付侍大将五千石の藤堂新七郎家に奉公に出る。嫡子良忠公は蝉吟と号し、芭蕉より2歳年長の文学青年で、京都の北村季吟に貞門俳諧を学ぶ俳諧好きであったことから、芭蕉も共に俳諧を学ぶ間柄であった。
 芭蕉23歳のとき、良忠公が亡くなる。その後の芭蕉の動静は定かではないが、当時出版された俳書に「伊賀住 宗房(芭蕉)」「伊賀上野住 宗房」とあることから、伊賀に本拠を置き、時には京都へも出て、俳諧や文学に関する学問を積んでいたと考えられる。
 伊賀時代における芭蕉の俳諧活動の結集は、寛文12年(1672)29歳のとき、伊賀の俳諧仲間を集め、初めて編んだ俳諧発句合『貝おほひ』で、小唄や流行語、奴詞を駆使しており、談林風の兆しがみられる。芭蕉はこの句合を上野天満宮(上野天神宮)へ奉納し、俳諧師として世に立つ文運を祈願し、春、江戸へと旅立った。

芭蕉が江戸へ下ってからも、各旅ごとに伊賀の実家へ度々帰郷している。大別すれば、
・1回目   延宝4年(1676)  
・2回目   貞享元年(1684)から同2年   「野ざらし紀行」の旅中
・3回目   貞享4年(1687)から同5年   「笈の小文」の旅中
・4回目   元禄2年(1689)から同4年   「奥の細道」の旅を終え、近畿巡遊の旅
・5回目   元禄7年(1694) 最後の旅

である。芭蕉は旅の途中、伊賀の実家を拠点に京都・奈良・大津等へ赴き、門人たちと交流を重ねている。

 保守的な貞門俳諧が主流の伊賀俳壇に新風を吹き込み、伊賀蕉門の形成に至るのは『笈の小文』の旅の帰郷であった。友田良品・梢風夫妻の招待、岡本苔蘇の瓢竹庵での止宿、旧主藤堂良忠公の息・良長(探丸)公の別邸における花見の宴での句の唱和をはじめ、各所で盛んに俳席が催され歓迎されている。ここに芭蕉の故郷伊賀に伊賀蕉門の存在が明らかになった。

 伊賀蕉門の存在を世に示したのが『猿蓑』(元禄4年刊)で、一句のみの作者が大半を占めるとはいえ、入集者は半残・土芳・風麦はじめ全国一の29名を誇った。その俳風は、小児のような無心な態度から生まれた無邪気でユーモラスな詩趣で、去来は『去来抄』において「あだなる風」と評し、伊賀蕉門の特色としているとともに、「軽み」の到達とみている。芭蕉は晩年、伊賀の俳人たちに「軽み」の指導を行っているが、芭蕉の意を正しく理解し、作品に具現した門人は土芳・猿雖ら一部の人たちであった。

 元禄7年(1694)8月15日、伊賀の門人たちの合材によって一棟の草庵が芭蕉に贈られた。芭蕉は転居祝を兼ね、仲秋の名月に句会を催し、心から門人たちをもてなしている。その折に芭蕉自ら筆をとった「八月十五夜 月見の献立懐紙」は、今日に伝わっている。
 それから2か月後の10月12日、芭蕉は大坂で病没した。

 芭蕉没後、伊賀蕉門の中心となったのが服部土芳で、土芳は蓑虫庵を拠点に芭蕉の俳諧を後世へと継承した。土芳の最大の功績は、芭蕉晩年の俳論を『三冊子』にまとめ完成したほか、芭蕉生涯の全作品を集大成し、『蕉翁句集』『蕉翁文集』『奥の細道』の三部書などを完成し、亡師の霊前に供えている。
 芭蕉はすぐれた俳諧師であるが、師芭蕉の教えを忠実に守り、後世へと「蕉風俳諧」を伝えた土芳の存在を忘れてはならない。